会報8号 2003年4月発行 
白井先生巻頭言抜粋

佐藤療法の始まりと高崎⇔パリの長距離往診
医療法人 千栄会昭和病院
名誉院長 白井 龍


昭和43年に佐藤一英先生と私がともに群馬大学の医局を離れ、国立高崎病院の放射線科医長に 就任しました。 それが、私が一英先生の免疫療法とのお付き合いの始まりでした。 一英先先生は国立高崎病院の古い倉庫の中で、大学の研究室時代から引き続き大量の ネズミに発癌させ、その癌を免疫の力で縮小させられないかと研究していました。 ある時「白石君、癌が小さくなったら、無くなったりしたよ」 それは、ネズミの癌に小線量照射し、リンパ球を注射した時にみられたものでした。 免疫について話が始まり「人間の癌でも同じことが言えるのだろうか・・・」

丁度その頃、乳癌の末期患者さんが来院しました。脊髄骨移転があり、歩行不能で這うようにして 整形外科外来に来たのです。 医師が腰痛部を診察しようとすると、激しい悪臭に気がつきました。 乳房に大きな乳癌があり、大きくなりすぎて壊死に陥り、崩れていたのです。 外科に紹介され直ちに入院。一英先生に相談したら、とりあえず癌を切除し、リンパ球療法をすることに 決めました。昭和45年には、まだ「免疫監視療法」という名称は用いていませんでした。

早速、手術で乳癌を切除し、術後、小線量の照射とリンパ球療法を施行したのです。 何しろ最初の症例でしたでの、一体どんな反応が現れるのか、すごく心配してその夜を過しました。 何も起こりませんでした。 数日後には、その患者さんが立ち上がれるようになり、トイレも自力で歩いて行けるようになりました。 退院後も一英先生はその患者さんの家庭訪問までして経過をみていましたが、5年以上も普通の生活をしていました。 この患者さんが「ヒヤヒヤドキドキ」の記念すべき第一例目なのです。

第二例目は胃癌の患者さんでした。
手術で開腹しますと、胃癌が膵臓にまで浸潤して一塊となっていました。切除不能です。 一英先生を手術室に呼び相談し、リンパ球療法をすることに決定しました。 まず、胃を半分に切除し、胃の入口側の半分を腸と吻合して栄養を摂取出来るようにし、 癌のある胃の出口を側の腹壁に穴を開けて一部分を出しました。胃瘻を増設したものです。 そこからラジウム針で照射も出来るし、胃カメラで経過を見ることもできるようにしたのです。 ラジウムで照射、そしてリンパ球注射をくり返し数ヶ月すると、その患者さんが 「お風呂に入りたい」と強く希望しました。おなかに穴が開いた状態では入浴できません。 高齢でもあり、入浴の望みを叶えてあげることになり胃瘻閉じる目的で再開腹しました。
ところがあの癌の塊が消えていました。 膵臓の浸潤も消失し、完全に離れていました。胃切除も可能でした。不思議でした。 まるでキツネにつままれたような感じでした。一英先生もびっくりしていました。 その時、癌はこの佐藤リンパ球療法で治せるのだと確信しました。 この二つの症例は一英先生が学会や研究会で発表しました。

このことが共同通信を通じて海外にも知られました。
それが、パリ長距離往診となったのです。
昭和47年1月寒いある日「白井君、フランスに行こう!」と一英先生が急に言い出しました。 当時、高崎市内には”フランス座”というストリップ劇場がありました。 私は「いまさらストリップとは・・・」と一瞬戸惑いました。 「パリだよ。フランスのパリだよ!」パリの金持、建設会社の社長さんの母親が進行胃癌で これ以上は治療法がないと主治医の先生からサジを投げられていた時に、共同通信で佐藤リンパ球療法のことを知り、 ぜひ一英先生の治療を受けたいとフランス大使館から外務省を通じて、一英先生に往診の要請があったんです。
「何日に行くの?」
「あさって・・・」
しかし、パスポートがありません。
一英先生のいつもの「大丈夫」を信じて、その日の診療は午前中で切り上げ、午後から 二人で県庁にパスポートとビザを貰いに行きました。 県庁の窓口では「冗談じゃありませんよ。どんなに急いでも一週間はかかります」とのこと。この寒い時にモスクワ経由でパリは、気がすすみませんでしたから。 ところが一英先生は「外務省の要請で行くのだから外務省にかけあって下さい」と強硬です。
役所の係り人は、外務省に電話してハイハイと返事していましたが私たちに「一時間ほどお待ち下さい」、 その足で羽田空港に直行しました。 日本空港DC-8でパリのオルリー空港に着くと日本大使館派遣の通訳と運転手付きの車が待っていました。

主治医はパリ大学の教授で担当医師は同じパリ大学の消化器専門の女医さんでした。 当時、パリには胃癌患者が少なく、パリ大学で胃カメラが出来る医師は二人だけで、 その一人がこの女医さんだったのです。 患者さんは、大邸宅のご自宅のベットに寝ていました。 早速、診察しました。癌性腹膜炎の末期でした。でもご子息の社長さんは、是非佐藤リンパ球療法をと 強く希望されました。もしパリで治療が無理なら、飛行機をチャーターするから高崎病院に連れていって 治療して欲しいと熱心でした。
高崎には、大きなジェット機が降りられる飛行場はありませんからとお断りしました。 それを聞いていた教授の先生が、佐藤リンパ球療法の方法を教えてもらえば、私がその治療をやりますと 申し出られました。 翌日、パリ大学の教授室を訪れ、一英先生が丁寧に教えていました。 午前中一杯かかりました。